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なゆたきとグレート・ギャツビー

 本日は、スコット・フィッツジェラルド作・村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を紹介していこう思います。

↓↓↓↓↓以下は、私の感想文です↓↓↓↓↓

 

   本作を一言で言い表すとするならば、それは美しいエレジー、と言うより他はないだろう。

単純に優れたトラジディー、と言ってしまうには惜しいほど、この物語で用いられている数々の美しい言葉やそれらで構成された巧みな風景描写、そして人物の立ち居振る舞い、心情の機微を追う文脈の流れは非常にリリカルであり、微に入り細を穿ち、初めから終わりまで穏やかなメロディーを奏で続けることに成功している。

    この『グレート・ギャツビー』がどういうストーリーを辿るのかを簡単に言ってしまうと、それは一九二二年の夏、ニューヨーク郊外にあるロング・アイランドを舞台にして繰り広げられた上流階級の金持ち同士の哀しい愛の物語、ということになる。  

    登場人物は、語り手であるニック・キャラウェイ、その友人であるトム・ブキャナン、その妻であるデイジー・ブキャナン、その古くからの友人であるプロ・ゴルファーのジョーダン・ベイカー、トムの愛人であるマートル・ウィルソン、その夫であり物語の幕引きを担った人物でもあるジョージ・ウィルソン、そして無慈悲な運命に翻弄され非業の死を遂げたジェイ・ギャツビー、という面々である。

以上の人物たちは、私が就中この物語の根幹をなすと考えられる主要な者を挙げたに過ぎず、実際にはこれよりもっと多くの名のある人物、そして名もなき人物が登場しており、そこのところを含め、本作は類稀なる生命力に満ちた物語と言えるだろう。

 

    本作において最も注目すべき人物と言えば、タイトルにもその名が使われているジェイ・ギャツビーということになるだろう。彼は無慈悲な運命、そして身内に潜む頑強なる自尊心によって、ひどく痛めつけられながらも最後まで自ら抱いた希望に対して正々堂々と向き合うことのできた人間だった。

ギャツビーの人生に死霊の如くつきまとうエレジーは、軍人時代に出会った良家の娘であるデイジーと恋に落ちた一九一七年からその旋律を奏で始めることとなった。初めのうち、二人は花のような時間を過ごした。それはピュアであり、プラトニックであり、それと同時に限りなくセクシーな関係性だった。しかし、ほどなくして一つ目の無慈悲な運命がギャツビーを襲い、彼らは無残にも引き離されることとなった。ギャツビーとデイジーの仲が急速に縮まろうとするなか、半ば唐突に彼が外地に送られることが決まったのだ。

    ギャツビーは戦地で目覚ましい軍功を上げ、大尉から少佐に昇格し、休戦協定が結ばれるとすぐに本国へ帰還するつもりだった。だが、ここでもまた運命的な手違いにより彼はオックスフォードへと送られてしまい、デイジーとの空白期間は更なる延長を余儀なくされた。そしてその間に、上流階級の美しい娘であったデイジーはとうとうトム・ブキャナンと結ばれてしまう。ギャツビーが本国に帰還したときにはもう、彼を待つ人はどこにもいなかった。

   

    しかし、彼のなかでデイジーに対する恋慕は失われることなく、それどころか想いは日に日に募るばかりだった。そしてこのときを以ってして、彼はゼロから身を立てる覚悟を決め、その五年後にはロング・アイランドのウェスト・エッグに豪華絢爛たる大邸宅を構えることとなった。このときデイジーは、ロング・アイランド海峡をまたいで向かい側にあるイースト・エッグに住んでおり(ブキャナン家の屋敷とギャツビーの屋敷はまさしく真向かいに位置していた)、ギャツビーはなんとか彼女の目を引こうと、毎夜の如く盛大なパーティーを開いては多くの客人たちに古今東西のアルコールを振る舞い、まことしやかな噂話(その大半は妬み嫉みを孕んだ悪評だった)を口々に囁かれながらも一心にデイジーのことを想い続け、夜が更ければ屋敷の庭に立ち、対岸の灯り(恐らくこれは想い人に対する微かな希望というメタファーではあるまいか)に手を伸ばす、というような暮らしを送っていた。まるでラブ・ソングである。

    しかしそのような真摯な想いであっても、行き着く先は大いなる欠落であり、果敢なく踏み散らされる造花に過ぎなかった。

    結果的にギャツビーはデイジーに裏切られ、名も知らぬ顔なき者どもに踏みしだかれ、作為的な誤解が引き起こした銃声によって、この世を去ってしまう。葬式にはニックとギャツビーの父だけが参列した。彼がその人生をかけて手にしようとしたものと同様に、あとには何も残らなかった。

    この物語から我々が学び取れる教訓があるとするならば、それはなんだろうか? 依然として私にはそれが分からないが、強いて言うならば、真摯な愛情から学び取れるものなど何もない、ということかもしれない。蓋し、この世のなかには約束された愛など、決して存在し得ないのだ、ということかもしれない。